昭和43年10月8日 朝の御理解
北村修司
御理解第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
あまりに難しい事ばかり言うてございますから、何かとんちんかんの、一つも分からない御理解ですね、これは。もう、一カ条、一下り一下りを見たり読んだりすればするほど難しい。
けれどもまたそれを一つ一つこう、本当にこう、(玩味?)して頂いてみると有難いとこう思うのですね。けれどもなかなかやっぱり難しい。本当の御真意に触れるという事は難しいにしましても(がや?)本当のところをこうここから分からしてもろうて尽きぬおかげを頂きたいものであり、同時に神より上になるというような思いが起こってはならない、そういう謙虚なおかげを頂きたいとこう思います。
尽きぬおかげを話にしておくのぞと、信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。この辺が難しいですね。確かに金光大神の、まあ、尽きぬおかげ、限りのないおかげの頂ける話を残しておって下さるという事は、結局どういう事かというと、御徳を受けさせて頂けれる話を残しておって下さったんですね。誰でも御徳が受けられる、御神徳が受けられる。御神徳が受けられる話なんだ。御神徳だから、御神徳、身に徳を受けるから尽きぬおかげにつながるわけです。私共どうしてもそのお互いの信心がですね、尽きぬ話というのはどういう事かというと、ここで、ここでは特におかげというよりも御徳を受けることばかりを話すといいますけれども、実を言うたらその御徳を受ける話ばかりでなからなければいけないという事。御徳を受けていくばかりの話、でなかったら尽きぬおかげにならない。ですからお互いのんならどういう事にならなきゃならんかというと、本当に御徳を受けるために信心をし、また信心の稽古をさせてもらい、またその信心の稽古というのは御徳を受けていかれる話を会得し、聞いていかなければならんという事になる。ですからもう本当に御徳を受けていく為の信心を(御用?)しなければならん。だからこりゃ合楽だけはじゃという事じゃなくて、金光様の御信心をする者は御徳を受けるために信心すると、もうこう言うて間違いないのです。またそれだけを教祖は教えておられると言うてよいのです。
ところがお互いは御徳を受けるといったような事はもう何か、その、手が届かない、凡夫じゃ手が届かないようなもののように思うて、そして目先目先のおかげを追うておる。その目先目先の追わなければならない、その、おかげを受けなければならないという問題とか、難儀とか、それを、それをもって御徳を受けさせて頂きたいという願いにたたなきゃならんという事が分かる。
例えば今の若い青年の方達の信心がです、本当に、まあ立身出世の為に信心をするというのではなくてです、若い時に信心を頂いておって、本当に御徳を受ける為に信心の基礎を若い時にしっかり作っておこうと、という事にならなければならんのです。この御教えはそういう事をまず、こう何て言うですかね、暗示的にとでも言うんでしょうかね、教えておられるように思います。そして、自分が御徳を頂いていきよる道、自分が御徳を受ける為にです、かくあらなければならん、かくせねばならん、自分がおかげを受けていくというのではない、自分が御徳を受けていく道、(?)御徳を受けていっておる道、いわば尽きぬおかげにつながっていきよるという事がおかげなんです。その尽きぬおかげを受けておる事を話にしていかなきゃならない。
例えば、はあ私はこげなこって病気の時にお願いしてからこげなおかげを頂いたとか、( ? )助けてもろうたと、こういう問題の時にこげなお願いをしたらこげな風におかげを頂いたという話ではね、ここではいわば神になるという事ではない。それを実意丁寧に人へ伝えていくのが神へなるのだと仰る。ただ自分のおかげ話を、おかげ話というか、それではなくて、御徳を受けていきよる、自分が。そういう話を実意丁寧に人へ伝えていく。だから聞く人もまた御徳を受けていく事の為の信心になっていく。なるほど、これならば、神になるのだと仰るが、やっぱ神に向かっていくという事だとこう思うですね。真の信心をさせるのが神へのお礼ぞとこう言うておられますね。真の信心をさせるのがと仰るとじゃけん、自分自身が真の信心をしよらなければ、真の信心をさせられるはずがない。なら真の信心とは、ご利益を受けました、ご利益を受けましたという話では真の信心にはならない。お話を頂いて、金光大神が尽きぬ話を残しておって下さった、その話が、もうすべてが御徳を受けていく、いわゆる尽きぬおかげを頂いていくお話ばかりなんだ。だからその話を身につけて、自分が御徳を受けていく、尽きぬおかげを頂いていきよる、尽きぬおかげを受けていきよる、その事を話すのが真の信心を自らが頂いてそれを人に伝えていく、それが真の信心をさせる事になるのであり、また神になるのだというおかげであり、また神へのお礼ぞということにもなるのである。ですからこの御教えは非常に難しいですね。ただ簡単にですね、信心をしておかげを受けたらとこう簡単に言うておられますから、信心しておかげを受けたらと、信心しておかげを受けたらという事がですね、それが真の信心でもなからなければ真の道でもない、それでは真の信心をさせる事もできない。だからここに真の信心とまず自分自身が受けていこうという願いにたたなければならない。なら真の信心とは神様の御信用を受けていく為の信心。神様のいわゆる御徳を受けていく為の信心。そういう信心をさせて頂いて、ならおかげという事はどういう事かというと、尽きぬおかげにつながっておるおかげでなからなきゃいかん。あの時はおかげ頂いたけれどもこの時にはおかげ頂かんじゃったといったようなおかげ、そんなおかげ話じゃつまらんという事になる。尽きぬ、限りのない尽きぬおかげ、それは尽きぬおかげというものは必ずその、まあお金で言うならばですね、もう人が目を見張るようなおかげを頂いて、そういうおかげが毎日毎日こう頂けていくという様な事から、例えば日に百円のその日暮らしであってもです、神様のおかげでその百円のその日暮らしがもう不思議にどこから頂けるか湧いてくるか分からんけれど、百円だけは何時も神様が与えておって下さると、もうこれだけは心配せんでも、これだけはちゃんと神様が用意してくださるですがねという話でなからにゃいかん。(ゆうに?)その人はいわば尽きぬおかげに触れておるわけです。これは金銭だけの問題の、どういう問題があってもですね、もう神様におすがりしていけばそれが必ずおかげの元になりますがねという話でなからにゃいかん。こげな事があっちゃ困るという事じゃない。そりゃもうやっぱ人間生きていく間にはです、雨もありゃ風もありますけれどもね、その雨やら風やらが必ずおかげの元になりますからねという話でなからにゃいかん。今私がこういう難儀な問題を持っておりますけれども、難儀をしておりますけれども、その難儀が必ずおかげの元になっていきますからねという体験を積んでいった、そんな話でなからにゃいかん。尽きぬおかげ、そりゃもうその人が御徳に触れていきよる、尽きぬおかげに触れていきよると。長年たくさんのならおかげを頂いてもです、それがそこでプツッと切れておったらそれはおかげの、ここで言う人に伝えられる話でもなからなければ、そういう話をしたからというて神になるという事ではない。
まあ大変そういう意味で難しいですね、これは。ここのところが難しいです。ここをだから、信心の共励でもする時にはもう何ぼでも共励ができれる感じの御理解ですね。
真の信心をさせるのが神への御礼ぞと、そういうなら信心を自分が頂いて、尽きぬおかげの頂けれるおかげを頂いて、尽きぬおかげの頂けれる信心へ人を導いていく、人に話していく。なるほどこれが神になる事が出来ると思うですね。神になるという。まあここんところはいろいろに深く広く頂いていけれると思うですが、今日は私ここんところを、神になりても神より上になるとは思うなと。神になるという事は有難いけど、その神よりも上になるとは思うなと、ここがまた分からんとこ。
例えばいわば百円のその日暮らしでも尽きぬおかげを受けておるというならですね、それはもう本当に合楽でも、私も御取次をさせていただきながら不思議で不思議でたまらん。この人はもう本当に日々よくおかげを受けていかれる。決して裕福な生活をしておるわけではないけれども、ささやかではあるけれどもこの人は(金のなる木?)がもう見えてござるばいと思う人があります。もうこの人達には、まあ少ししかならんですけどね、けれどもこの人達にはもう(金のなる木?)が育ちよるばいと思う人が合楽ではたくさんあります。本人は気が付いておりません。いわゆる金のなる木そのままが御徳なんです。百円ずつか二百円ずつか分からんけれども、もう間違い無しに毎日毎日なっていきよる。
いわば神になりてもという事。そういうおかげを頂いておる者がです、神より上になるとは思うなと仰るその、神より上になったような事になる時にです、その木は枯れたり育たなかったりするのです。だからいつもいつも百円のその日暮らしではいけないということになるのです。いっちょん太りよらん。十年前も今日もやっぱりその日暮らしである中は、そのせっかく徳の木を頂いたけれども、その徳の木が育ちよらんという事になるわけです。なぜかというと神より上になると思う、自分は神より上になっておるとは思わないけれどもいつの間にか神より上になっておるようなものが神の機感に叶わんのじゃなかろうかと私は思う。自分では神の、神様より上になるなんて思うても、滅相もないという事ですけれども。
それで、神より上になるという事はどういう事だろうかと。この人はとても素直な人。本当に素直がその人の取り得であると生まれつき素直な人がありますよね。その人が信心によってだんだん磨かれていくという事は本当に有難い事です。けれども雲の上までも上る道があると仰るのです、素直心の一つにて雲の上までも上る道があるという素直さというのは、いわゆる尽きぬおかげに触れていかなければいけない。その素直な人がね、その素直な信心によって尽きぬおかげが頂けていけれる。
先日御本部参拝の帰りに、久富重雄さんが(行きから?)酔われるような感じでもう行き戻り難儀をされて、帰られて、まだ夕べも総代会出てきておられたそうですけれども、私はお会いしませんでした。まだ大変気分が悪くて帰らせてもらうと言うて帰られたそうですが、まあここで、いわば素直な信心の手本のように言われなさるのが重雄さんですね。いつも素直という時にはもう(まるっきし?)必ずその(引き当て?)に重雄さんが出されなさるほどに、確かに素直な方です。私も時々、本に馬鹿んごと素直だなと思う事があるんです。
ところがです、同じ、例えばそういう素直な人でもですね、いつの間にか神より上になるといったようなものができてきよる。もう俺より素直な者はおらんという風に思うてござるわけじゃなかろうけれども、それがいつの間にか神より上になると思うなと仰る、そういうようなものがいつの間にかできてきよる。その証拠にはこういう事があるということなんです。
帰られてから、皆さん帰った後に私休ませてもらいました。(久富?)先生が私が休むので足を揉んで下さりよった。そして重雄さんも少し気分が良くなったからと言うて、休んでおられましたけれど起きてきてから揉んで下さった。それで久富先生が(久富重雄さんに話をなさいましたですもん?)ね。久富さん、あなたがですね、もう行きがけからちゃんともう酔う事に決めとりなさるけん酔いなさるとですよ。もうあなた、話を聞くと( ? )時にはもうちっと気分が悪かごとある。冷水峠を通る時にはもういよいよこりゃもう、あの、あそこで酔うたと自分で言われるくらいにその、もう、まだここから( ? )も行かん先に酔うのですから、何百里の道を行くのですけん、酔うはずだと。行きがけからもうあなたはそげんでした。( ? )を頂きなさらんか。いんやもう私は酔うけんでもうご飯食べん。もう初めから酔うけんでという風に思うとんなさる。それがあなたが言いよんなさるとですよ。親先生に御取次を頂いてお願いをした後じゃから、また親先生の御用もしなならんのじゃから、酔うちゃあならん。酔やあせん。そういう風に思うて行きなさらんけん酔いなさるとですよと言うて、私の右と左の足を揉みながら話しなさるとですよね。そしたらもう重雄さんがもうムキになって腹かかれるんですよ。あなたそげなんこと言いなさるばってん、あなただって酒飲んでから酔いなさるでしょうもんちゅうわけですよ。私は初めて重雄さんのああいう風に言われるのを聞いた。結局自分の弱点というものを突かれると腹が立つわけなんですね。もう、それこそもう、もう( ? )ごと言われたんです。久富先生もそう言うとられます。もう重雄さんのああいう風に言われるのを初めてじゃった。私は本当にあなたがもう酔うと思うとるけん酔いなさっとたい。もうそれを行く前から酔うとりなさっとと同じこってすよ。んにゃ私は酔うけんでご飯頂かん。もう酔うけんって決めとりなさるけん酔いなさるとですよとこう言うわけなんですね。そりゃ久富先生がこれが好きなんです。お神酒が好きですから、そこを今度はパッとこう、今度は向こうの弱点を突いて返されるわけなんですよ。あなたでも酒飲んでから酔いなさるでしょうもん。そりゃあ酔う。んなら私が酔うとは当たり前と言っていわんばかりのその言い方なんです。はあ、この人にもこげなところがあるばいなと。これはバスの中でもそげんでした。もうずっと私が起きておる( ? )で休んじゃいかれん。休んどりゃ一番楽だというのに。それがその後ろにおられた田中さんか誰かが、あのおっちゃまあなた、靴下ば脱ぎなさると良かってすよ、楽にならさるですよ。靴下ば脱ぎなさいっち。それば半分起き上がってから言いなさるもん。私が靴下ば脱いだらなら私は靴下が自分で履かれんごとなりますっちこう言うわけです。そげん( なる? )て言うもん。だから靴下でん脱がれんという事なんです。もう( ? )。(別にどうでんないでしょ?)。本当に、いくらかでも楽になんなさるようにというて靴下も脱ぎなさると、楽に、酔いなさらんかもしれませんよと後ろの人が言いよるとですから、はあそうですねと言うなら、いつもならそうですけれども、自分のやっぱり弱点を突かれた。自分は靴下ば履いとるぐらいなこって酔うのじゃない。自分の酔うととは人の酔うとと違う。そりゃ酔うた者じゃなきゃ分からんと、また起きなおってそれを言われました。はあこれではね、私はいわば、ここでは素直の手本のように言われておるけれども、ここんところが、はあそうですねとどうして言えんだろうか、この事だけには。
弱点を突かれればそれに向かっていく。弱点を突かれれば、いわばそういうものが出てくるというところに、これはまだ雲の上までも上れる道、ものではないなという事を私は感じたです。
ですからこの事を、また機嫌が良うなんなさった時に、あなたが素直素直というけれども、これはおそらく家でもそうじゃろうと思うですね。息子達が、娘達が、家内達がです、お父さんこうと言うたらおそらくムキになって腹決めされんところがあるんじゃなかろうか。これじゃあ馬鹿ほどの素直さと言われながら馬鹿ほどの素直さじゃない、雲の上までも上る素直さじゃないと。家内や子供が言うても、ほんにそりゃそうかもしれんねと言えれる心なんです。
私は今日、神より上になるとは思うなという事はですね、そういう時に例えばすぐそれをそうだとこう、そうですねとこう思えれる心、もし思えない時には皆さんの場合でもそうですよ、それが反対に反発したような時には、もう自分はそろそろ神より上になっていきよるという事を思わにゃいかんです。例えば人の不行状を見る、人のつまらんところを見る。ありゃつまらんと、という風に見た時にはもう神より上になっておる時です。あやつと同じようなものが自分の心の中にもありゃせんかと反省し、あったあったと気が付かせて頂く、そういう心が私は、ここでは、( ? )、だからこの言葉は大変難しいですね。私も今日初めてそこんところを分からせて頂き、気付かせてもらった。神より上になる、そげん信心しよる者が、神様よりも上になるなんてん心は思いはせん。思いはせんけれどもいつの間にか上になる気になっていきよる。だから徳の木がそれから上はぎっしり太らんのはそのためだと、という気が致しました。
私共がいつの間にか神より上になる。信心を頂いて、教えを頂いて、その教えが身について、その教えによって自分が尽きぬおかげをいただけるようになる。そしてそれをもう絶対のものとして自分が感じるようになる。少しばっかりの本当であってもですよね、やっぱり本当の事であればおかげになるんです。だからそれをもう絶対のもののようにそれを思い込んでしまう人があるです。もう思い込んでしもうておる時にはすでに神より上になっておる時です。これ、自分でほんなこつとこう思い込んでおる時は。それはそれによっておかげを受けておるけれども、もっともっといわゆる本当があるという事をいつも思うとかなきゃいかんです。んーにゃこれがほんなこつばい、いやこれがほんなこつ、自分が言うのがほんなこつと例えば言うときには、もう神より上になっておると。はあ言われてみると、もう一個、もう一つ考え、もう一練りしなければならんのだと気付かせていただく、私は素直さとそういう信心は神より上にならんですむおかげ。神より上になるなと仰るが、神より上になるというような考え方はもうここじゃおかげにはならんという事と同じ事なんですよね。という事は今日私が申しましたように、合楽では皆さんがですね、もう本当にこの人は徳の木を植えとんなさるとじゃろうかと思うようにです、それは百円か二百円か三百円か、まあその日その日のその日暮らし的なおかげではありますから、それが尽きぬほどにおかげを頂いておられますという事は、確かに徳の木が植わっていきよるとですよ。小さいながらも育っていきよるとです。ところがそれよりかぎっちり大きくならんとするならですね、そういう私共、神より上になるというような心がですね、邪魔をして阻害をして、もうそれよりか上に育っていないのですから、限りなくおかげを限りなくおかげを頂いていくという事は限りなく大きくおかげを頂いていくというものでなからなければいけない。限りなく、一年一生百円のその日暮らしであったではつまらんと思うんですよね。それが、しらごつじゃなか、そりゃ本なこつ。けれどもより本当のある事を知らない。より本当の事に進んで進んでいく事をしない。だからそれぎりになってしまうのじゃなかろうかと思う。
この61節をあらためて今日はこういう風な頂き方をしたわけですけれども、本当にここんところはもう初めから最後までですね、信心の、金光様の信心の深さ広さをですね、お互い話し合う、共励しあうのには、もう最適な御理解だなと今日御理解頂きながら感じたんですけれども、もっともっと皆さんよく練ってごらんなさいませ。神になるという事、神になっても神より上になるとは思うな、そげんこっちは神になっとらんつもりでもいつの間にか神になっとるです。もうそういう徳を受けとるです、あなた方は。だからもう神になっているのです。けれどもね、神より上になるといったような考え方が、もうそこで枯れたり無くなったりしよる、という事をここでは私は今日気付かせてもらいました。とても神様にはなっとらんと自分では思うておる。けれども神様になっておる証拠に、おかげを、尽きぬおかげを受けていきよるじゃないかと。それのとこの元に返ってですね、真の信心をさせるのがとか、真の道を踏んでいくのぞと、どういう事が真の道を踏んでいくか、どういう事が真の信心をさせるのか、という事も今日ちょっと説明がされましたですね。
金光大神よりいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくのぞと。信心しておかげを受けたらとこう仰るそのおかげというのは、ただ、医者の見離した病人が助かりましたと、本当に奇跡的なおかげを頂いたというようなおかげではなくて、ここにはっきり言うておられるように、尽きぬおかげなんです。尽きぬおかげが、尽きぬおかげを頂く。その尽きぬおかげの頂けるような信心をもって、私は真の信心、そういう信心を身につけて、そしてその真の信心をまた次の人にさせていくのが、神に、自分が神になる事にもなれば、また神への第一のお礼という事にもなる。ここんところができてきた。ところが最後のここんところが、まあ私自身も分かってなかった。神になるのぞと、神になりても神より上になるとは思うなと。神になりても、まだまだとても自分どんが十年二十年信心これからしていったっちゃ神にはなれんと思うとった私が、もうすでに神になっておったという事を知らにゃならんいかんです。その証拠にはかくおかげを受けておるではないか。けれどもそのおかげが育たんのは、もういつの間にか神にも、いわゆる上になるような心があった。例えばそれを重雄さんの例で申しましたね。重雄さんのもうこれは十年ぐらい前に地蔵の徳と仰った。地の蔵の徳と、お地蔵様ですね、お地蔵様の徳を受けていけとこう仰った。いわゆるお地蔵様の徳とはもう限りがないんです、尽きぬ。種さえ蒔きゃ何ぼでも何でもこの大地から生まれてくるような御徳を受けていけとこういう。重雄さんそこんところを頂いておいでられない。そんなら自分の頂いておられるあの素直さというものが、信心によってもっともっと本気に磨かれていかなければならない。もう素直さは自分の持ち物のように思うておった。ところがさあ実際ことに当たって弱点を突かれると、その弱点を突かれた事が無性に腹が立つ。それが親切で言われておる事までが腹が立つ。これでは地蔵の徳という事にはならん。はあこれが、例えばなら家内子供達の、から見てもです、親先生はもう重雄さん重雄さんっち言いよんなさるばってんがうちの親父はと、例えばんなら子供達が言うたり思うたりするところがもしあるとするなら、そういうところをこれから、重雄さんは、はあほんなこと自分は素直素直と思いよるけれども、ここんところは素直どころか反対にへんてこな( ? )な(?)を持っておることを気付かれて、そこを改めていくところの信心がなされていく時に、いよいよ地蔵の徳が身についていくでしょう。そしてもう、神より上になるどころではない、いよいよ神になっていくことの楽しみ、いよいよ神になっていくことの楽しみというのは、人の不行状を見た、あんな事と思うようなものを人の姿から見たときに、それがあげな奴という風に見た時に、見るのじゃなくてです、ああいうものが自分にもありはせんかと検討する。弱点を突かれた時、ほんにそうですねとそれを素直にそれを聞けれる時に、自分は神より上になるのではなくていよいよ神を目指させて頂いておる自分である事にいよいよ有難いものを感じれるような信心。そういう信心を身につけていきたい。61節はそういうような事を教えておられるように思いますね。
どうぞ。